「糸満街道」(いとまんかいどう)
2024年03月06日
6,486- ◎ 「糸満街道」(いとまんかいどう)
小漉地区の終わりから糸満ロータリーまでの国道を、むかし「糸満街道」と呼んでいました。
その道を妻は数年間、バス通勤をしていました。
沖縄水産高校の事務職をしていたからです。
三男と四男がお腹にいた頃は、人一倍大きなお腹をかかえ、臨月近くまで働いていました。
昨日、何年間ぶりに「糸満街道」を車で通りました。
見違えるほどに風景が一変していましたa
当時の「糸満街道」は、大雨のたびに、あちこちで冠水が起りました。
なお、妻と沖縄水産高校との関係は深く、すでに退職後でしたが、沖水が甲子園大会で準優勝した時には、二度とも家族そろって応援に出掛けました。
小漉地区の終わりから糸満ロータリーまでの国道を、むかし「糸満街道」と呼んでいました。
その道を妻は数年間、バス通勤をしていました。
沖縄水産高校の事務職をしていたからです。
三男と四男がお腹にいた頃は、人一倍大きなお腹をかかえ、臨月近くまで働いていました。
昨日、何年間ぶりに「糸満街道」を車で通りました。
見違えるほどに風景が一変していましたa
当時の「糸満街道」は、大雨のたびに、あちこちで冠水が起りました。
なお、妻と沖縄水産高校との関係は深く、すでに退職後でしたが、沖水が甲子園大会で準優勝した時には、二度とも家族そろって応援に出掛けました。
Posted by 具志堅興清 at 11:01
│家族ばなし(思い出話全般)