“かゆみ“は「発散現象」
2010年01月06日
84、『 “かゆみ“は「発散現象」 』
民間療法としての灸療(お灸による治療)が全盛を極めていた時代、あまり灸療体験のない子供らが灸療のあと、「お灸のあとが、痒(かゆ)い」-と訴えると、体験豊富な大人たちは、「お灸のあとが痒くなりだしたら、どんどん病気が治っていく」-と、むしろ大喜びしました。
“体験知“(体験的知識)として、“かゆみ“が体内排気ガスの体外への発散であることを熟知していたからです。。
ちなみに貝原益軒は「養生訓」のなかで次のように述べています。
「灸をしたあとに灸瘡(きゅうそうー灸のあとのかさぶた)が出来ないようでは、その病気は治りにくい。
自然に任せて、そのままにしていては、人によっては灸瘡が出来にくいことがある。
こうした時には人工的につくってもよい」
その文に続いて貝原益軒は、灸瘡のつくり方まで教えているのです。
どうして人工的な方法まで使って灸瘡をつくったかといえば、灸療では灸瘡ができてはじめて、“かゆみ“が発現するからです。
そして灸療が衰微した現代にあっても、決して、“かゆみ“が人を苦しめる、いわゆる悪玉でないことを、これまた“体験知“を通して知っている人たちが存在します。
それは、「上衝(じょうしょう)体質」なるがゆえに、慢性的に体の筋肉部や関節部の筋(すじ)の凝る人、あるいは神経痛の持病のある人たちです。
辛い凝りの発症も、激しい神経痛の発作も、患部周辺に痒(かゆ)みが発現すやいなや、劇的に弱まるのを、彼らは度々の体験で知っているからです。
つまり、“かゆみ“は針灸治療の現場では、まさしく凝りや痛みの救いの神なのです。
つまり、善玉も善玉です。
ところが、西洋医学では、“かゆみ“はアレルギー症状の一つであり、皮膚病における皮膚症状の一つとしてとらえています。
つまり、悪玉も悪玉です。
体の“かゆみ“を善玉ととらえるか、悪玉ととらえるかーは、極めて重要なことだと私は思います。
痒(かゆ)みに対する許容範囲に大きな差が出てくるからです。
痒みを善玉ととらえる人には、かなり激しい体の痒みでも、けっこう我慢が可能です。
逆に“かゆみ“を悪玉ととらえる人は、怒りを込めて掻(か)きまくるか、“痒み止め“を求めて薬屋へと走ることでしょう。
民間療法としての灸療(お灸による治療)が全盛を極めていた時代、あまり灸療体験のない子供らが灸療のあと、「お灸のあとが、痒(かゆ)い」-と訴えると、体験豊富な大人たちは、「お灸のあとが痒くなりだしたら、どんどん病気が治っていく」-と、むしろ大喜びしました。
“体験知“(体験的知識)として、“かゆみ“が体内排気ガスの体外への発散であることを熟知していたからです。。
ちなみに貝原益軒は「養生訓」のなかで次のように述べています。
「灸をしたあとに灸瘡(きゅうそうー灸のあとのかさぶた)が出来ないようでは、その病気は治りにくい。
自然に任せて、そのままにしていては、人によっては灸瘡が出来にくいことがある。
こうした時には人工的につくってもよい」
その文に続いて貝原益軒は、灸瘡のつくり方まで教えているのです。
どうして人工的な方法まで使って灸瘡をつくったかといえば、灸療では灸瘡ができてはじめて、“かゆみ“が発現するからです。
そして灸療が衰微した現代にあっても、決して、“かゆみ“が人を苦しめる、いわゆる悪玉でないことを、これまた“体験知“を通して知っている人たちが存在します。
それは、「上衝(じょうしょう)体質」なるがゆえに、慢性的に体の筋肉部や関節部の筋(すじ)の凝る人、あるいは神経痛の持病のある人たちです。
辛い凝りの発症も、激しい神経痛の発作も、患部周辺に痒(かゆ)みが発現すやいなや、劇的に弱まるのを、彼らは度々の体験で知っているからです。
つまり、“かゆみ“は針灸治療の現場では、まさしく凝りや痛みの救いの神なのです。
つまり、善玉も善玉です。
ところが、西洋医学では、“かゆみ“はアレルギー症状の一つであり、皮膚病における皮膚症状の一つとしてとらえています。
つまり、悪玉も悪玉です。
体の“かゆみ“を善玉ととらえるか、悪玉ととらえるかーは、極めて重要なことだと私は思います。
痒(かゆ)みに対する許容範囲に大きな差が出てくるからです。
痒みを善玉ととらえる人には、かなり激しい体の痒みでも、けっこう我慢が可能です。
逆に“かゆみ“を悪玉ととらえる人は、怒りを込めて掻(か)きまくるか、“痒み止め“を求めて薬屋へと走ることでしょう。
Posted by 具志堅興清 at 07:37│Comments(0)
│「針灸医学」