プロフィール
具志堅興清
針灸開業歴四十余年。 中国針専門。 得意は脈診(みゃくしん)。 具志堅鍼灸治療院 治療時間 午前9時~午前11時 午後2時までは昼休み 午後2時~午後6時 日曜日は毎週、休みです。 公休日は治療しています。 針治療するハリは、衛生的で安全な 使い捨て針を使用しています。 新しい針灸院は、「幸地入口バス停」の奥にある「首里福音教会」前の急坂道の裏の行き止まりにあります。 西原町字幸地 586―20 が新住所名です。
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「ナオさんとの会話」

2012年01月31日

1、481-〇 『 「ナオさんとの会話」 』

 彼の友人知人たちは彼のことを皆して「ナオさん」と呼びます。

 私も何時とはなく彼を「ナオさん」と呼ぶようになりました。

 「ナオさん」は一級建築設計士です。


 今日の午後、「ナオさん」がハリ治療に訪れました。

 「ナオさん」は私の二十年以上に及ぶ患者です。

 「ナオさん」は右半身が不自由です。

 高血圧の後遺症に因る症状です。

 以下は今日の私と「ナオさんの会話」の再録です。




 「それにしても、よく探して来てくれました。本当にありがとう!」

 「松川には昨年の11月に行きました。治療院の跡は、すっかりサラ地になっていました」

 「去年の8月16日に西原に引っ越してきました」

 「ずいぶん、静かな場所に移って来られましたね」

 「ナオさん。実はこの家30年前に建てました」

 「と言いますと?」

 「せっかく家は建てたものの、ここでは6人の子どもを育てるだけの治療収入が絶望的だと判断し、そのまま松川に30年間も居座ることにしたのです」




 「私とセンセイとの付き合いも23年になりました!」

 「たしか、あなたが高血圧で倒れて入院中の病院を抜け出してきてのハリ治療でしたね」

 「そうでした。その私の決断は正しかった!」

 「その間、私は妻を亡くし、あなたも奥さんを亡くしましたね」

 「センセイは10年前、私は7年前に亡くしました」

 「しかし、ナオさん。あなたは現在、少しもサビしくなんかないでしょう?」

 「センセイ!どうして分かります?」

 「顔に書いてありますもの」

 「センセイだって、ちっともサビしくないことが顔に書いてあります!」

 「スポーツセンターでのリハビリは、いまも続けておられるのですか?」

 「日曜日と祝祭日以外は毎日通っています」



 「もう70の坂は越されましたか?」

 「センセイより2歳だけ私は若いはずですよ」  

Posted by 具志堅興清 at 20:41Comments(0)人生論

「私の長男」

2012年01月30日

1、480―〇 『 「私の長男」 』

 私の長男は父親に似て「超変わり者」です。

 「超変わり者」という点ではよく似ていますが全然違うところが一点だけあります。

 それは私の長男が「超美貌の男性」だと言うことです。

 昔流の言葉で言えば「超美男子」です。

 今流の言葉で言えば「超イケメン」だということです。

 「超美貌の女性」が、意外にも男性から「もてない」ように、「超美貌の男性」も女性からは意外なほどもてません。

 「超」が付く段階になると、女性でも男性でも自ずから自分の「美貌」を意識せざるをえません。

 その自意識こそが、「超美貌」の女性も男性も、意外なほど異性からは「もてない」ようにしてしまうのです。

 私の知りうる限り、自意識せざるをえないほどの「超美貌な女性」も「超美貌な男性」も、典型的な「硬派(こうは)なんです。

 けっこう「身持ちが硬い」タイプなのです。

 プライドが、そうさせるのでしょうか。

 私は長男が大人になるまで、彼の長所を見つけるのに苦労しました。

 「超イケメン」なんて親にとっては何の長所でもないからです!


 ところが、長男が20代半ばの頃、長男の強引な誘いに乗って、カラオケ店に一緒に行って、彼の歌う「花の生涯」が北島三郎を、はるかに上回り、彼の歌う「昔の名前で出ています」が小林旭を、はるかに上回るのを発見し、父親は度肝を抜かれてしまいました。



 そして、その頃から、私の周辺の人間に重篤な病気や死亡が相続きました。

 おそらく私の長男は重篤な病人を看病させたり、没後の諸法事を取り仕切っては日本一だと思います。

 つまり、私の長男には、他の若者が真似の出来ない長所が二点あります。

 「超イケメン」ぶりなんて父親にとっては何の長所にもなりません!

 「演歌の抜群のうまさ」と「病人看護」は、日本一だと父親の私は太鼓判を押せます。


 現在、私の長男は、祖母の付き添い役で彼の持ち味を発揮しています。


 なお、私の長男は先天性の心臓疾患のために五歳時に一回目の「心臓ペースメーカー」の植え込み手術を行い、すでに4回の植え込み手術を経験しています。


 数年前には交通事故で瀕死の重傷を負いましたが、無事、地獄からの生還を果たしました。  

Posted by 具志堅興清 at 20:52Comments(2)家族ばなし(思い出話全般)

おばぁの見舞いは私の最高の楽しみです1

2012年01月29日

1、479―〇 『 おばぁの見舞いは私の最高の楽しみです! 』

 私が寝台の上のおばぁの手を握りしめて帰りを告げる時、おばぁは必ず言います。

 「コウセイ。あんな遠いところから難儀して、もう来ないでもいいよ」

 それに対して応える私のセリフも何時も同じです。

 「だって、おばぁに会うのが最高の楽しみだから来るのですよ。また明日も必ず来ます!」

 実際、私は、おばぁに会うのが、その日の「最高の楽しみ」なのです。

 私が訪ねて合図したときの、おばぁの嬉しそうな表情がたまりません。

 おばぁの嬉しい表情から私はイッパイの気力を頂戴できるのです。


 私は身内の入院の際には、しつこいほどに毎日見舞いに行きます。



 話は約半世紀も前に遡ります。

 私が神奈川県の辻堂の断食道場で「20日間断食」をしていた20代前半のことです。

 当時、鎌倉の七里ガ浜の土木会社のダンプカーの運転手をしていた一つ違いの兄は、毎日、仕事を終えた後、断食寮の弟を見舞ってくれました。

 私は、その時、たった25歳の実兄から「人間はどう生きるべきか」を、まざまざと教えられました。

 その時、断食中の私にとって、兄が神様のように見えました。

 正直に言って、私の兄の人生は惨憺たるものでした。



 事業に失敗して夜逃げ同然に大阪へと旅立ちました。

 その間に妻子とも離別しました。

 大阪での25年後、兄は大阪の某病院のベッドに瀕死の体を横たえていました。

 酒の飲みすぎによる急性腎臓炎でした。

 私と亡き妻とで兄を沖縄へ連れ帰りました。

 その後、兄の人工透析生活は、12年になろうとしています。  

Posted by 具志堅興清 at 20:32Comments(2)家族ばなし(思い出話全般)

「洗顔」の意味

2012年01月29日

1、478-〇 『 「洗顔」の意味 』

2007年(平成19年)9月26日(水曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載


 ヒトには、他の動物と違って、朝起きたらすぐに顔を洗う習慣がある。

 赤ちゃんや手の動かせない病人以外は、自分の顔を自分自身の手で洗う。

 さて、人体には「九竅(きゅうきょう)」と称する比較的に目立つ九つの穴がある。

 頭部には、目と鼻と耳に、それぞれ二つの穴が開き、口も一つの穴である。

 下腹部にも前後に二つの穴が開口している。

 人体は空気を吸い飲食物を摂取して、生命活動を営む。

 同時に大量の老廃物が生じる。

 これらの老廃物は主に下腹部の二穴から排出され、頭部の七穴もまた、それぞれが本来の役割とともに排せつ口としての役割も兼ねている。

 工場であれ家庭であれ、排水口や排気口の周辺は最も汚れやすい。

 人体またしかりである。

 すなわち人体では、老廃物が体外へと排出される「九竅(きゅうきょう)」周辺は最も汚れやすい。

 つまり「洗顔」とは、「九竅」のうちの上部の七穴を清浄に保つための優れた「健康法」なのである。

 ついでに、下部の二穴の洗浄手段も、ぜひ習慣化すべきである。
 

   

Posted by 具志堅興清 at 14:55Comments(0)新聞の針灸健康投稿文

「自炊の楽しさは材料集めから」

2012年01月29日

1.477―〇 『 「自炊の楽しさは材料集めから」 』

2012年(平成24年)1月29日(日曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載

 独り身の生活のせいもあって、私は自分の食事は自分で料理するのだが、約十年間も自炊が続いたおかげで、料理のレパートリーも30種以上にも増えた。

 料理は、レパートリーが増えれば増えるほどに楽しさも増してくるもので、今や、せっかくの楽しみを省略するのがもったいなくて、外食は一切しなくなった。

 もちろん料理も「物づくり」の一つである。

 物づくりの楽しさは、完成させる喜びだけでなく、最初の過程の「材料集め」から楽しみは始まる。

 だから料理が好きになると、最初の材料集めである「買い物」自体が非常に楽しくなってくる。

 ふつう老後の食事は、青年期や壮年期に比べ、質量ともに相当の変化をきたす。

 質的にはおのずから野菜中心の内容に変わるし、量的にも小食へと傾く。

 その変化に対応するためにも、他人任せではなく、自分の食事を自分で作ることは、極めて都合がよい。   

Posted by 具志堅興清 at 09:51Comments(2)新聞の一般投稿文

「幸福度」を左右するのは「価値観」です!

2012年01月28日

1、476―〇 『 「幸福度」を左右するのは「価値観」です! 』

 「幸福度」とは、「自分は今、シアワセダナア!」と感じる度合のことです。

 人生の失敗や挫折を最高レベルの「人生の味」だと、とらえる私は現在、最高に「幸せ」です。

 自分の過ぎ越し方の「不運」を、むしろ「幸運」と解釈できる今、自分の人生に何の後悔もありません。

 分かりやすい例を紹介しましょう。

 私は19歳から24歳までの5年間、M子さんに恋焦がれました。

 まさに私の「初恋」でした。

 私の「初恋」は24歳半ばで終わりました。

 やがて「初恋」のM子さんも私の心から完全に消え去りました。


 ところがところが、その後の約40年後、私の目前に初恋のM子さんが突然に登場します。

 それは、急逝した妻のシンジュウクニチの日でした。

 たまたま、M子さんが亡き妻の親友のA子さんの親友だったからです。


 私はM子さんとの「初恋」が成就しなかったおかげで、「亡き妻」のような「世界一」の女性に出会うことが出来たのです。

 私は若い人生の大切な時期に、闘病生活のために「初恋の女性」をはじめ、全てを失いました。

 しかし、実際は失ってはいなかったのです。





 亡き妻は十年前に58歳で急逝しましたが、亡くなった後、彼女は私の心の中に再び蘇りました。

 今では、心から、すばらしい女性に巡り合ったものと思っています。

 ヒトの失敗や挫折は、今までの「価値観」を引っくり返してくれます。

 引っくり返された「価値観」のなかからヒトは「新たな幸せ」をつかむことが出来るのです!

 人生の失敗や挫折を後悔するのではなく、貴重な人生修業の機会だったと解釈できるヒトならば、失敗や挫折は、むしろ「大きな儲け物」をプレゼントしてくれます。

 人生の成功や栄光なんてクソクラエ!です。  

Posted by 具志堅興清 at 20:35Comments(0)人生論

困難で培った「抵抗力」は大きな財産です

2012年01月28日

1、475-『 困難で培った「抵抗力」は大きな財産です 』


2007年(平成19年)9月17日(月曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載

 ヒトは何らかの困難に遭遇したとき、全力を挙げて困難に立ち向かう。

 困難を乗り越えたとき、彼の中に困難に対する「抵抗力」が生まれる。

 その際に手に入れた「力」は、再び困難が襲ったとき大きな助力をなす。

 さて、学問であれスポーツであれ、仕事であれ政治であえれ、抜群の頭脳や体力、あるいは抜群の強運に恵まれたヒトがスイスイと、アッと言う間に頂点を極める例がある。

 もし、この種の幸運児に、突然に相当の「抵抗力」を要する困難が降りかかったとき、意外にも、もろく崩れてしまう危険がある。

 上り詰めるまでに、さほどの障害を経験しなかったが故に、彼の中には困難に対する「抵抗力」の蓄えがないからだ。

 まさか崩れるはずのないヒトが、もろく崩れゆく姿ほど悲惨なものはない。

 やはり、頂点を目指すヒトは、大小さまざまな障害を一つ一つ乗り越えながら上へ上へと進むべきであり、進ますべきではあるまいか。  

Posted by 具志堅興清 at 15:12Comments(0)新聞の一般投稿文

今の私に「あの世」との境い目はゴザイマセン!

2012年01月27日

1、474―〇 『 今の私に「あの世」との境い目はゴザイマセン! 』

 今の私に「あの世」との境い目はゴザイマセン!

 若い方々にとっては、「この世」と「あの世」の境い目は鮮明です。

 その境い目が消えたのは70歳を過ぎてからです。

 私が、69歳の時、「早く70代になりたい」と願った最大の理由は、そこにあったのかも知れません。

 「この世」と「あの世」との境い目が無くなれば、かえって「この世」を生きる上では、かえって楽なのです。

 この世における諸々の不安が一掃されてしまうからです。

 もはや私にとって、「この世」に何の不安もゴザイマセン!  

Posted by 具志堅興清 at 21:06Comments(0)人生論

「大阪の息子への私信」

2012年01月27日

1、473―『 「大阪の息子への私信」 』


 取引先からバンドを購入しましたので送ります。


 腰に疲労感を覚えた日には、必ず使用してください。

 
 バンドの「中」は、「お前用」です。


 バンドの「小」は、「ミナちゃん用」です。

 
 部屋の柱にネジ止めして「肩」、「背中」、「腰」をほぐす「ビニールパイプキャップ」と「指圧棒」も一緒に送ります。


 なお、人間は、どんな仕事でも一番に大切なことは、「食事」です。

 仕事をする人間は基本的に「自分の料理は自分で作ること」が大事です。

 お父さんみたいに50種のレパートリーは必要ありませんが、とりあえず最低10種の料理は身に付けてください。

 追伸

 おばぁは、昨日も元気でしたよ!  

Posted by 具志堅興清 at 11:01Comments(0)家族ばなし(思い出話全般)

「学問の中断」は「向学心のリトマス試験紙」です

2012年01月26日

1、472-〇 『 「学問の中断」は「向学心のリトマス試験紙」です 』

 戦争は、多くの若者たちの学問を中断させます。

 終戦後、向学心の残った若者は再び「学問の道」へと踏み出しました。

 しかし向学心は残っていながらも、家庭の事情や身体的事情で「学問の道」から遠ざかってしまう人もいました。

 私が思うに、本物の向学心は、60代であろうが70代であろうが健在だと思うのです。

 本物ならば、向学心が簡単に凋んでしまうはずがありません。

 「戦争のために自分の学問への道はズタズタにされた」

 あるいは「病気のために自分の学問への道はコナゴナにされた」

 かって私は人生の先輩たちの口から以上のセリフを数多く聞かされてきました。


 ところが、私も、やがて72歳になります。

 しょせん、彼らのセリフが自分を慰めるための言葉に過ぎないことが、よく見えてきました。

 本物の向学心が、そう簡単に凋むものではないからです。

 本物の向学心は長い戦争や長い闘病生活で凋むものではないからです。


 私的な事を申し上げると、私の向学心も昨年の6月あたりから全く閉塞状態のままです。

 おそらく今年の6月あたりまでは、私の「学問の閉塞状態」は続くでしょう。

 「つぶせるものならツブシテミロ!」です。



 「学問」とは、何も「有名大学」を出て 、最終的に大学教授などの学者になることではないはずです。

 私のように70代になって、たとえ世に出ることはないにしても、本当に学問が好きであるならば、あの「学問の神様」といわれる「菅原道真公」とて、何の文句も言わないでしょう。  

Posted by 具志堅興清 at 20:33Comments(0)人生論

「体力」も「頭脳」も余力を後半に残すべし

2012年01月26日

1、471―〇 『 「体力」も「頭脳」も余力を後半に残すべし 』

2007年(平成19年)9月9日(日曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載

 中国の古典『荘子(そうじ)』に、「朝三暮四(ちょうさんぼし)」の説話がある。

 ある時、猿回しの親方が猿たちに、どんぐりを与えながら、「これからは朝に三杯、鵜方に四杯やることにする」と言ったら猿たちは、いっせいに怒りだした。

 そこで親方が「すまん。すまん。では朝に四杯、夕方に三杯にする」と言い換えたところ、たちまち機嫌を直したという。

 さて、人生を前半と後半に分けると、人は誰もが前半を重視して全力を注ぐ。

 もし何らかの事情が起こって全力を尽くせないときは、心底から悔しがる。

 そのとき、悔しさのあまり彼の頭の中に後半は存在しない。

 ところが不完全燃焼で終わった人生前半の悔しさは、逆に後半を有意義にいきるための術(すべ)の数々を生む。

 とりわけ現在の日本は、超高齢化社会である。

 若者が圧倒的に多かった時代には問題にされなかった老後の生きざまが問われる時代である。

 つまり体力も頭脳も、余力を後半に残すことが求められる時代なのである。  

Posted by 具志堅興清 at 15:55Comments(0)新聞の一般投稿文

「一夜漬け」

2012年01月26日

1、470―〇 『 「一夜漬け」 』

2007年(平成19年)8月28日(火曜日)の「沖縄タイムス」の「茶のみ話」に掲載

 「野菜大好き人間」の私は、生の野菜だけでなく漬物の野菜にも、大変に興味がある。

 スーパーに入ると、まずは野菜の漬物コーナーへと直行する。

 今や流通が発達し、各店、全国各地は無論のこと、中国や韓国からの野菜漬物までそろっている。

 漬物といえば、日本の歴史上の人物では、河村瑞賢(かわむらずいけん―1617~1699年)が浮かぶ。

 江戸時代前期に活躍した豪商である。

 ある日、瑞賢は、盂蘭盆(うらぼん)の後で廃棄された供え物の茄子やウリが、品川の海に大量に浮いているのを発見し、一瞬ひらめいた。 早速、それらの野菜をかき集め、漬物に加工して工事現場の人夫相手に売り込んだら、大人気を博し、相当の金を稼いだ。 その後、それを元手に材木に手を広げ、ついに大富豪になったという(『日本の歴史』-16-元禄時代ー中公文庫)。

 実は、私がスーパーの漬物で手に取るのは、決まって浅漬けや一夜漬けのたぐいである。

 何しろ、二十年来、自分で野菜の一夜漬けを漬け続けてきたので、たまには既成の物の味も参考にしたいからだ。

 一夜漬けは、人それぞれ好みが微妙に違う。

 味よりも野菜本来の新鮮な持ち味を大事にしたい人にとっては、瑞賢やスーパーの既成の物では、どうしても納得できないだろう。

 やはり、自分好みの一夜漬けを追及したいなら、私は自分自身で漬けることを勧めたい。  

Posted by 具志堅興清 at 11:36Comments(0)新聞の一般投稿文

演歌の歌唱も「完全主義」では続きません!

2012年01月25日

1、469―〇 『 演歌の歌唱も「完全主義」では続きません! 』

 私は、おばぁ(義母)の入院以来、見舞いの往き帰りは主に「誰か故郷を想わざる」と「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌っています。

 歌って楽しんでいるというよりも「練習して苦しんでいる」というのが実情でした。

 この二つの歌が私の愛唱歌の仲間入りして半世紀は過ぎています。

 半世紀にもなるのに私は、この二つの歌を歌うとき、今だに楽しめません。

 楽々とは歌唱出来ないからです。

 
 おばぁも此の二つの懐メロが大好きですし、私の亡き妻も大好きな歌でした。

 おばぁの見舞いの往き帰りに歌うということは、もしかしたら私の気持ちの中に、おばぁと亡き妻の助力を期待したものがあったのかも知れません。

 実は、ここ二、三日、私は「誰か故郷を想わざる」も「ああ、モンテンルパの夜は更けて」も楽々と歌えるようになったのです!


 なぜ楽々と歌えるようになったのでしょうか。

 それは歌唱の「完全主義」を棄てた結果にほかなりません!


 私は、いちおう「健康法」の専門家です。

 「健康法」で一番いけないのは「完全主義」なのです。

 素人が演歌を楽しむためにも「完全主義」は有害です。

 従来の私のように、わざわざ楽譜まで取り寄せて歌唱の完全を期するなど、とんでもない間違いです。




 「健康法」が自分の体に合うように適当に崩すべきであるように、演歌の歌唱も原曲を崩して自分の「喉(のど)」に合わすべきではないでしょうか。

 その点、プロの歌手は大先生の指導の元に、あくまでも原曲に忠実に歌わなければなりなせん。

 その御苦労は大変のものだとお察し致します。  

Posted by 具志堅興清 at 20:33Comments(0)趣味

「タードーシウム」

2012年01月25日

1、468―〇 『 「タードーシウム」 』

 私は稲作農家で育ちました。

 稲作農家の子どもたちには「大きな楽しみ」がありました。

 美味しい新米を口にすることではありません。

 その「大きな楽しみ」とは、田んぼの芋畑(タードーシ)から収穫された「タードーシーウム」を口にすることでした。



 沖縄の二期作の場合、二期作の収穫と一期作の植え付けの時期に、けっこう間隔がありました。

 その間に、稲作農家は、田んぼの水を引いて土を乾燥させ、サツマイモ栽培を行いました。

 水田の水を引いて「サツマイモ畑」にすることを沖縄語で「タードーシ」と言います。

 「田倒し」の意です。



 「タードーシ」の田んぼで収穫されたサツマイモ(琉球芋)のことを「タードーシウム」といいます。

 「タードーシウム」は、軟らかくて甘味に富み、当時の農家の子どもたちの最高級の「おやつ」になりました。

 なお、私は時々、食品スーパーで、「タードーシウム」に形の酷似した「煮たサツマイモ」を見つけて試食しますが、かなり昔の「タードーシウム」とは味に差があります。  

今日の昼食は「タピオカ」でした

2012年01月25日

1、467ー〇 『 今日の昼食は「タピオカ」でした 』

 私は40年以上、「一日二食主義」です。

 朝食は省略し、昼食と夕食だけを取ります。

 今日の昼食は「タピオカ」でした。


 現代人にとっての「タピオカ」は、芋くず(サツマイモのでんぷん)や片栗粉(ジャガイモのでんぷん)などともに店頭に並ぶ澱粉の白い粉です。

 私のようにタピオカの芋を食べる人はいなくなったようです。

 しかし私にとっての「タピオカ」は、あくまでも芋の「タピオカ」のことです。


 ちなみに「タピオカ」は、「キャッサバ」の別名です。

 「キャッサバ」といえば、原産地の南洋諸島やフィリッピンあたりで、たまに食中毒で死者も出します。

 明らかに調理法の間違いによる食中毒です。

 おそらく、その結果、日本でも芋(いも)としての「タピオカ」は食卓から消えてしまったのではないでしょうか。

 私は母親の煮方を忠実に守ります。

 水をタップリ入れた鍋に「タピオカ」を入れ、芋の皮が剥(む)けかかるまで煮ます。

 そうすれば、中に含まれる毒素は完全に外側へと発散してしまいます。

 サツマイモのようにレンジで煮たり、揚げ物(いもてんぷら)などは厳禁です。





 ですから煮て食べた経験のない方は、「芋(いも)」としての「タピオカ」は食べないでください!  

「タピオカ」

2012年01月25日

1、466―〇 『 「タピオカ」 』

 昨夕、おばぁの入院先からの帰りに、東風平の野菜直売店まで車を走らせました。

 ニンニク葉を買い求めるのが目的でした。

 ニンニク葉は、今が最も美味しい時期だからです。

 ニンニク葉を五束も買ったあと、店内を一回りすると、店の一角に「タピオカ」の芋がイッパイ並んでいました。

 私が大喜びしたのは、言うまでもありません。

 なにしろ農家生まれの私にとって、「タピオカ」と「タードーシウム」は生涯忘れることのできない最高の御馳走なのです.

 しかも自分の家で作る作物だから、収穫時には、何時も満足な量が食べられる御馳走でした。

 ちなみに「タピオカ」は「キャッサバ」のことです。


 そして「タードーシウム」は、稲作農家が二期作収穫後の田んぼを「サツマイモ畑」に仕立てて作る「サツマイモ」(琉球芋)のことです。

 皮が薄くて超やわらかくて甘みがあり、そのほとんどを自宅で消費しました。

 薄皮のため、生芋としての保存が難点で街の店々に出回ることはなかったはずです。

 ですから、「タードーシウム」の最高の味を知っているのは、当時の沖縄の稲作農家の子どもたちだけだったのではないでしょうか。

 沖縄の稲作農家に生まれ、季節になると毎年、「タードーシウム」の味を満喫できたせいか、今もって私は、どうしてもヤマト生まれの「焼き芋」には目がいきません。  

「あんたが可哀相だから、もう来ないでいいよ!」

2012年01月24日

1、465―〇 『 「あんたが可哀相だから、もう来ないでいいよ!」 』

 今日、おばぁの病室を見舞った後の帰り際、おばぁが比較的元気な鮮明な声で私に声をかけました。

 「コウセイ!毎日通うあんたが可哀相だから、もう来ないでいいいよ!」

 実は、このセルフを私は彼女の入院以来、待っていた言葉なのです。

 このセリフこそ、おばぁが退屈な入院生活に、ようやく慣れた証拠なのです。


 「カワイソウ」のセルフは、おばぁの得意中の得意な言葉です。

 彼女の「愛他精神」を体現したセリフなのです。

 彼女は今までの92年間、「カワイソウ」の言葉を万回に近いぐらい口から吐いたに違いありません。

 おばぁの今までの人生は「カワイソウな人々」への奉仕に終始した人生でした。


 逆に私は「底辺主義」を自分の思想の根本に掲げながら、「カワイソウ」という言葉は今まで全く使ったことがありません。

 おばぁの思想と私の思想の相違点は、根本では似ていても、屈折の仕方が違います。

 おばぁの思想は、あくまでも真っ直ぐです。

 私の思想は、かっての「名護の七曲り」のように、かなり屈折しています。

 しかし私も、おばぁの思想のように、あくまでも「底辺主義」です。

 「エリート大嫌い」・「成功者大嫌い」・「金持ち大嫌い」・「超頑丈物大嫌い」です。




 逆に「落ちこぼれ大好き」・「挫折した人や失敗したひと大好き」・「ビンボー人大好き」・「病人や虚弱者大好き」です。




 私は今だかって、高校や大学の合格者の親戚の家に「おめでとう」を言いに出かけたことがゴザイマセン。

 私はいまだかって選挙で当選した友人知人のもとに「おめでとう」を言いに駆け参じたことがありません。

 私は明日も心から喜んで、おばぁの病室を訪ねます。  

Posted by 具志堅興清 at 20:47家族ばなし(思い出話全般)

「強いものいじめ」

2012年01月24日

1、464-〇 『 「強いものいじめ」 』

2007年(平成19年)8月19日(日曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載


 「いじめ」とは、自分が不快に思う対象(相手)を懲(こ)らしめてやろうーという、屈折した心に発した行為である。

 不快さに相手の強弱は関係ないはずで、いじめられる対象として弱いのが目立つのは、弱ければ弱いほどに相手の抵抗が小さく被害の度合いも大きくなるからだ。

 ふつう、「あこがれ」や「羨望(せんぼう)」の的は、自分を向上させる目標となる。

 しかし屈折した心には、自分と相手との間にさまざまな面での格差が開き過ぎるとき、おうおうにして、それは反感と憎悪を生む。

 自分よりも強いのが相手だけに「強いものいじめ」は、個人対個人でも、不意打ちや集団的暴力などの非常手段を使う。

 尋常な手段では太刀打ち出来ないからである。

 なお、正義や民族的抵抗の旗印の前に、とかく幻惑されがちだが、強力な武器による国際的な無差別テロは、いかなる大義名分を掲げたところで、明らかに「強いものいじめ」の範ちゅうに入れるべきだろう。
  

Posted by 具志堅興清 at 15:08新聞の一般投稿文

「ヤンバルの集落の戦跡」

2012年01月24日

1、463―〇 『 「ヤンバルの集落の戦跡」 』

2007年(平成19年)8月8日(水曜日)の「琉球新報」の「茶わき」に掲載

 中南部での激烈を極めた沖縄戦の後、あまり激しくはなかったはずの山原(ヤンバル)の小さな十数軒のわが集落にも、三つの「戦跡」が生まれた。

 一つは集落西側の低い山あいの田んぼの近くの細い農道脇、もう一つは集落東側の長い山道への入口、二ヶ所とも銃殺された日本兵の発見場所であった。

 さらに一つは戦死者をまとめて埋葬した墓地である。

 これらの「戦跡」を通るたび、集落の人々は必ず合掌した。

 わが小さな集落は、沖縄本島北部、本部半島の首根っこの真ん中に位置した。

 集落の中央を南から北へ縦貫する県道が走り、当時、山道へとつながるポイントは日本兵が本部半島から羽地や大宜味の深い山へと逃れる際の通過点だった。

 米軍はそれらのポイントを狙って待ち伏せ作戦を展開したのである。

 小学校の低学年のころ、私は祖父と前記の日本兵墓地付近で、ヤギの餌にする木の葉っぱ刈ったことがあった。

 そこで見付けた字の書かれた紙片を声を出して拾い読みしていると、死人の物に手を触れてはいけないと、祖父に厳しく止められた。

 おそらく紙片は肉親からの手紙に一部だったに違いない。

 わが集落の「戦跡」も、埋葬地の遺骨が新たに建立された公民館横の慰霊塔に移されてからは、次第に集落の人々の記憶から遠ざかっていった。

 やがて、そこを通ってもだれ一人合唱しなくなった。  

Posted by 具志堅興清 at 14:43新聞の一般投稿文

病人が放散する「陰の気」

2012年01月23日

1、462―〇 『 病人が放散する「陰の気」 』


 私が子どもだった頃の沖縄では、妊娠中の女性が「病人を見舞うこと」を各家々の古老たちは大変忌み嫌いました。

 妊娠中の女性が、見舞った病人から「陰の気」(陰気)を受けて、早産や流産するのを恐れたからです。

 そして当時、妊娠中の女性が葬式に参列するのも、各家々の古老たちは、極力忌み嫌いました。

 同時に神経痛やリュウマチの持病のある人の重篤な病人の見舞いや葬式への参列も厳しく戒めました。

 痛みや症状の増劇を懸念した結果です。



 確かに「病人」は「陰気」を体外に放散します。

 「死者」も「陰気」を体外に放散します。

 ただし「陰気」には、マイナスの「陰気」もあれば、プラスの「陰気」もあります。

 当然、病者や死者の放つ「陰気」も「プラスの陰気」と「マイナスの陰気」を兼ね具えています。


 私は子どもの頃から病人が大好きでした。

 そして今は病人相手の職業に就いています。

 私のような人間は、病人や死者からマイナスの「陰気」を受けることのない典型的なタイプの人間です。

 ですから今回のおばぁの入院に際しても、私は自分の子どもたちに明言しました。



 「体調の良い日に見舞いなさい。体調の悪い日に見舞いを休んでもお父さんは許します。ただし、お父さんは毎日、おばぁの見舞いに出かけます」

 今日も私は、入院中のおばぁを見舞って、沢山の「プラスの陰気」(気力)を頂いて帰ってきました。

 しかし私は入院中の病人を一日も欠かさずに見舞う私の方針を、自分以外の人間にはすすめません。

 下手をすると、まともに病院や病人からマイナスの「陰気」をもらい受けて、悪い結果を招きかねないからです。

 病人を見舞ったばっかりに自分が病人になったのでは、元も子もありません!



 なお、妊婦や持病のあるひとが、重篤な病者や死者を訪れてマイナスの「陰気」をもらい受け、悪い結果を招来することを沖縄の言葉で「フジョーマキ」と称します。

 「フジョーマキ」とは、直訳すると「不浄負け」となります。

 危険な伝染病の多かった時代の人々は、人が死んだ瞬間、体内の伝染性の病原菌が体外へ出てくるものと解釈しました。

 ですから死後まもない時間の「遺体」を「伝染病」の「媒体」と誤解してしまったのです。  

Posted by 具志堅興清 at 21:12Comments(0)「針灸医学」

「湖底の故郷」

2012年01月23日

1,461―〇 『 「湖底の故郷」 』

 「湖底の故郷(ふるさと)」は、昭和12年に世に出た東海林太郎の歌です。

 私が最も得意とする懐メロです。

 得意とするという意味は、無理のない音域のなかで伸び伸びと歌えるということです。

 懐メロの中には半世紀以上も大好きな歌だったにもかかわらず、今もって、かなり無理に音域を広げないと歌えない歌があります。

 このところ私は、自分の音域に無理な懐メロは「持ち歌」から除外することにしました。

 無理して歌ったのでは、心から楽しむことが出来ないからです。


 このように方針を転換したとたん、演歌が益々大好きになりました。

 楽々と歌えば、歌唱力にも自己満足できる上に、その歌を心から楽しむことが出来るのです。

 私が、このところ、おばぁの病院への見舞い往来のの車のなかで歌う懐メロは、「時雨ひととき」・「東京悲歌」・「都の雨に」・「湖畔の宿」・「明日はお立ちか」・「ラバウル小唄」であり、「湖底に故郷」です。


 「誰か故郷を想わざる」は、少年時代からの愛唱歌の一つですが、今もって音域を広げるのに苦労しています。

 「落葉しぐれ」も、かって、この歌一つしか歌わない時代もありましたが、完全に歌うには、音域に少々の無理強いをしなければなりません。

 その点、「湖底の故郷」ならば、よっぽど体調が悪くても、あるレベル以上の歌を歌える自信のある歌です。





 ほかには「白い花の咲く頃」や「昔の名前で出ています」は、私の自然体の音域で楽しむことの出来る歌です。  

Posted by 具志堅興清 at 20:29Comments(0)趣味

喜如嘉の「ジュウルクニチ」

2012年01月22日

1、460-〇 『 喜如嘉の「ジュウルクニチ」 』

 朝、三男から電話がありました。

 「お父さん。今日の喜如嘉のジュウルクニチ、〇〇兄さんとお父さんは那覇を離れられないから、私たち夫婦で行ってきます」


 「ジュウルクニチ」とは、「十六日」に行われる「墓参り」のことです。

 かって、旧正月の一月十六日は喜如嘉をはじめ、大宜味村全般の「墓参り」の日でした。


 やがてジュウルクニチの行事は、新暦の一月十六日に変わりました。

 そして、中南部に住んでいる大宜味村出身の都合に配慮して、新暦の1月16日が日曜日に当たらない場合は、1月16日の次の日曜日に行われることになりました。


 つまり今日の1月22日の日曜日が、喜如嘉の「ジュウルクニチ」に当たります。


 私は8年ほど前、喜如嘉の墓地に亡き妻の墓を建てました。

 妻の故郷に妻の墓を建てたことで、確かに世間は夫の私の志を高く評価してくれます。

 ところが、喜如嘉の墓所の一等地に妻の墓を建てられたのは、すべて今、入院中のおばぁの功績なのです。

 何しろ妻は蜘蛛膜下出血による急逝でしたので、没後、しばらくは首里の万松寺に預けました。

 一ヵ年を過ぎた頃、私は喜如嘉の地に妻の墓を建てたいことを義母に打ち明けました。



 行動派のおばぁは、その日のうちに行動を開始しました。

 驚くべきことに、墓地の入手の困難な今の時世に、私が相談を持ちかけた翌日には、義母は一人娘の墓地を見つけてくれました。

 私は、その時、世間は「苦労人」を尊敬している事実を、まざまざと見せ付けtられました。

 おそらく私などが、いくら東奔西走したところで、十年かかっても妻の墓を建てる土地を見つけることはできなかったことでしょう。

 私は、墓地を手に入れた日、人間の苦労は必ず報われる事実を教えられました。

 「妻の墓」といっても、墓標は「具志堅家の墓」となっています。

 「具志堅家の墓」は、喜如嘉の海岸の墓地の国道沿いのすぐ脇の一等地に建っています。


 なお、那覇をはじめ、沖縄全般の「墓参り」とは、イコール「清明祭」(シーミー)のことです。

 大宜味村の「ジュールクニチ」については、伝統の「ウジミゼーク」(大宜味大工)たちが「出稼ぎ先」からの、いわゆる「正月に帰郷するタイミング」に合わせた行事だといわれています。

 しかし私は、大宜味村の各集落に残る祭りの「古謡」の存在からして、大宜味村の歴史は沖縄で最も古く、「清明祭」が中国文化を真似て出来上がったものに対し、大宜味村の各集落の「ジュウルクニチ」は、「大宜味大工」(ウジミぜーク)が沖縄各地に出稼ぎするようになった時代よりも、さらに古い時代からの伝統行事なのではないかーと推察しています。  

Posted by 具志堅興清 at 20:21Comments(0)家族ばなし(思い出話全般)

本棚が完成しました!

2012年01月22日

1、459―〇 『  本棚が完成しました! 』

 ただ今、午後の3時半を過ぎたばかりです。

 本棚が完成しました!

 高さが180センチメートル、幅が1メートル、奥行きが40センチメートルの6段本棚です。

 見栄えよりも容量を重視して設計し製作しました。

 かなりの量の蔵書が収まることでしょう。

 全く同型の本棚を、もう二つ製作予定ですが、二作目や三作目は一作目を参考にすればよく、比較的に容易に製作できると思います。

 治療室のスチール製の机の上にかぶせる一枚板は、ただノコギリで合板を切断するだけの作業でしたので朝のうちに完成しました。

 夕方になれば、おばぁの病室訪問に出かける予定です。  

Posted by 具志堅興清 at 15:51Comments(0)趣味

私の「日曜大工」は既に始まっています

2012年01月21日

1、458―〇 『 私の「日曜大工」は既に始まっています 』

 今日は、まだ土曜日です。

 「日曜大工」とは、素人大工が日曜日の休日に行うから「日曜大工」なのです。

 しかし、私の「日曜大工」は既に今日の土曜日から始まっているのです。


 「日曜大工」は、代表的な「物づくり」です。

 「物づくり」を心から趣味とする人にとって、「物づくり」とは、最初の工程の「素材選び」の段階から既に始まっています。

 たとえば、私は明日の日曜日の休日を利用して。本棚とスチール製の机の机上に載せる大きな「載せ板」を製作します。

 本棚の材料選びは先週から始まっています。

 今日は、「載せ板」にする厚い合板と本棚のバックに使う薄い合板を買い求めました。

 おばぁを病院に見舞うついでにホームセンターに立ち寄り買い求めました。

 「載せ板」は、治療室造りの初期に既に製作しました。

 ところが、ふつうの綺麗な厚い板を組み合わせて作った「載せ板」が三ヶ月目あたりから「彎曲化」を開始しました。

 今では、まるでトンネルの天井のように彎曲(わんきょく)をなしたいます。

 ふつうの樹木を製材して作った厚板には丈夫そうに見えても、彎曲する大きな欠点がありました。

 その点、合板には、彎曲しない利点があります。

 「日曜大工」を予定している日には、私の胸は土曜日からワクワクしてきます。  

Posted by 具志堅興清 at 20:08Comments(0)趣味

「天国の妻との会話」

2012年01月20日

1、457―〇 『 「天国の妻との会話」 』

 何時もは私の方から話しかけるのですが、今日は亡き妻のほうから話しかけてきました。

 夕食後、妻の仏壇を背に私がウツラウツラとしていたときのことです。


 「おとうさん。今日もご苦労さんでした」

 「ああ。あかあさんか。今日もおばあさんに会ってきて大変楽しかったよ」

 「本来なら二人して見舞ったはずなのに、本当にごめんなさい!」

 「何をおっしゃいますか。おかあさん!私が病室のおばあさんを見舞う時は、何時も、お前と一緒ではないか」

 「私が何時も一緒だということを、おとうさんは、どうして知っているの?」

 「もちろん知ってるさ。なにしろお前とはこの世で28年間も夫婦だったんだから」

 「おとうさん。28年間ではありません。38年間ですよ」

 「そうだったか。38年間だったか」

 「だってそうでしょう? おとうさんは、私亡き後再婚してないですもの」

 「とにかく私から今、天国のお前に頼みたいことは、おばあさんを早めには迎えにきてもらいたくないことだけだ!」

 「分かっていますよ。おとうさん。とくに〇〇(長男)が悲しみますから」

 「そうなんだ。〇〇(長男)の看病は世界一だと思う」

 「彼はおとうさんに似て病人には心から優しい人間だから」

 「このごろ、お前が彼(長男)を生んでくれたことを心から感謝しています!」  

Posted by 具志堅興清 at 22:16Comments(0)家族ばなし(思い出話全般)

「小説家」

2012年01月20日

1、456―〇 『 「小説家」 』

 青年期、私は「小説家」を志しました。


 青年期、私は「画家」を志しました。


 その頃、私の「小説」の素材は夜、浅い眠りのなかで見る「陰性の夢」に沢山ありました。

 夢の中に小説の素材が浮かぶと、私は起きだして深夜、原稿用紙に少なくとも1時間は向かいました。

 そのころ同時に画家も志していましたので、昼間のキャンバスの上に表せなかった色彩が夢の中で閃くと、早速起きだして、これまた深夜キャンバスに向かいました。

 このような生活を続けているうち、やがて体調に異変が生じました。

 「このままでは、せっかく十何年もかかって復調させた体だが元のように駄目になってしまう!」

 そう気付いた翌日、絵筆を全て折って廃却処分にしました。

 同時に、書きかけの小説の原稿も廃棄処分にしました。


 以上は、今を去る三十数年も前の「自分史」の一ページです。

 爾来、私は絵筆を一切取っていません。

 爾来、私は小説は一切書いてはおりません。

  

Posted by 具志堅興清 at 21:26Comments(1)趣味

定年後の「趣味」

2012年01月20日

1、455―〇 『 定年後の「趣味」 』

2007年(平成19年)7月31日(火曜日)の「琉球新報」の「声欄」に掲載

 ものの収集や技芸、そのほか、人にはさまざまな趣味がある。

 仕事が現役の時代にあっては、趣味は仕事の活力を生み、定年後にあっては、過ごす時間を退屈から充実へと変える。

 高齢社会における老後の時間は、極めて長い。

 長い時間を充実させるか退屈させるか―つまり趣味の有る無しは、その人の老後の生活を大きく左右する。

 どんな趣味でも、始めたころは非常に楽しい。

 やがて奥へ奥へと進むにつれ、高く厚い壁が立ちはだかり、行く手を阻む。

 いくたびも趣味の壁を乗り越えた人なら、立ちはだかる壁にこそ真味は存在するという事実を知っているものの、初めての方は、往々にして壁の前で立ち往生してしまう。

 寸暇を惜しんだ現役時代とは違い、老後には時間がたっぷりある。

 恵まれた時間と、現役時代に培った忍耐力で壁に立ち向かえば、おのずから道は、開けてくるはずである。

 人間いくつになっても、継続こそ力である。  

Posted by 具志堅興清 at 14:45Comments(0)新聞の一般投稿文

「完全主義」からの脱却を

2012年01月20日

1、454―〇 『 「完全主義」からの脱却を 』

2007年(平成19年)7月23日(月曜日)の「沖縄タイムス」の「オピニオン欄」に掲載

 試験場で完全主義者が目指すのは。あくまでも百点満点である。

 勉強にしろ、仕事にしろ、彼は全力を尽くす。

 ですから彼にとって、何事をするにおいても、「余力を残しながらする余裕」などあるはずがない。

 完全主義者にとって、人生一番の試練は、年若い頃の「慢性病」あるいは「突然の頑固な体質の崩れ」だろう。

 そういう体調の中で人は、とても全力を尽くして勉強をすることも仕事をすることも不可能だからである。

 仮に、「慢性病」や「頑固な体質的崩れ」が、一時的に小康状態を得て、どうにか全力を尽くせるようになったとき、途端に彼が勉強や仕事に全力を傾けたとしたら、彼の体調は、たちまちにして逆戻りしていまうだろう。

 とかく競争社会にに生きる子どもや若者は、完全主義(100点満点志向)を強いられがちである。

 不幸にして、年若くして治りがたい慢性病や改善し難い体質的崩れに見舞われたとき、最も大きな課題は、「完全主義からの脱却」ではあるまいか。  

Posted by 具志堅興清 at 10:53Comments(0)新聞の一般投稿文

「セロリの葉っぱ」

2012年01月19日

1、453―〇 『 「セロリの葉っぱ」 』


 ふつう、セロリは茎を食べます。

 もちろん茎も食べますが、私の狙いは「セロリの葉っぱ」なんです。

 昨日、行きつけのホームセンターで緑の葉っぱのイッパイ付いたセロリの束を見つけました。

 一束たったの70円也。

 二束を買い求めました。

 今日の私の夕食は昨日の食べ残しの「アシティビチ」と「セロリの葉っぱの野菜汁」でした。

 もう一束残っていますので、明日もセロリの葉っぱの野菜汁が夕食のメインになることでしょう。

 私は、「一日二食主義」ですが、第一回目の昼食は「御飯」と「野菜」の簡素な内容です。

 二回目の「夕食」となると、けっこう、栄養重視の内容に変わります。

 第二回目の食事である「夕食」には、魚肉や豚肉の脂味の少ない肉は、結構、摂りいれています。

 特に家族の誰かのために「使命感」を突きつけtられる時は、その「使命感」に応えるべく、結構、栄養の摂取には気を使います。

 普段の、何事も起こらない日々には、私は「栄養主義」を捨てた食生活をしています。  

私は歌いながら病院へ行きます

2012年01月19日

1、452-〇 『 私は歌いながら病院に行きます 』

 私は毎日、車の中で歌を歌いながら病院へと通います。

 私は毎日、演歌を歌いながら入院中のおばぁの病院に行きます。

 近頃、歌うのは、船村徹作曲で鳥羽一郎やちあきなおみの歌っている「都の雨に」です。

 もちろんインターネットから仕入れた歌です。

 なかなかの名曲です。

 名曲ですが、ここ数日、なかなか歌いこなせない一節がありました。


 今日、おばぁの病院へ車で向かう途中、突然、その難しい一節が楽々と歌えるようになりました。

 病室のおばぁが助力したのでしょうか。

 いや、いや。私はおばぁの一人娘の亡き妻が助力してくれたものと確信しています。

 おばぁの病院からの帰りには、楽々と歌えるようになった「都の雨に」を自宅に辿りつくまで少なくとも10回は熱唱しました。

 往きの車の中では歌いながら自然に涙がこぼれて仕方がありませんでしたが、病室のおばぁの元気な顔に触れ、帰りの車のなかでは、おのずから歌う口元から笑みさえ浮かんできました。  

Posted by 具志堅興清 at 19:37Comments(0)家族ばなし(思い出話全般)