プロフィール
具志堅興清
具志堅興清
針灸開業歴四十六年。
中国針専門。
得意は脈診(みゃくしん)。
具志堅鍼灸治療院

治療時間
午前9時~午前11時
午後2時までは昼休み
午後2時~午後4時

日曜日は毎週、休みです。
公休日は治療しています。
針治療するハリは、衛生的で安全な
使い捨て針を使用しています。

治療料金は2,000円です。

新しい針灸院は、「幸地入口バス停」の奥にある「首里福音教会」前の急坂道の裏の行き止まりにあります。
西原町字幸地 586―20 が新住所名です。



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てぃーだブログ › 「針灸おじさん」=具志堅興清 › 2010年01月16日

「ブーブー」と 「床屋の看板」

2010年01月16日

112、〇 『 「ブーブー」と 「床屋の看板」 』

ヨーロッパでは、まだ医学における外科学の分野が発達していない時代、床屋が「ブーブー」(瀉血)その他の医療技術を駆使し、軽症に限って、外科治療を担った時代がありました。
その名残(ご)りが、日本の床屋(理容館)の入口の赤、青、白の看板です。
赤が動脈、青は静脈、白は包帯を表しています。
正式の名称を「サインポール」といいます。
現在は、「理髪、ひげそりを致します」ーの看板ですが、当時のヨーロッパでは、それに加えて「瀉血その他の外科治療も致します」-の看板だったのです。

アンブロアス・パレー(1517~1590)といえば、ヨーロッパにおける外科学の先駆者と言われる人物ですが、「医学の歴史」(小川鼎三著)の中の彼の小史を次に紹介します。

「外科は、この人(アンブロアス・パレー)によって、それまで理容師の業とされたものが、一躍して内科と並ぶ地位にまでのぼった。
フランスの田舎に生まれたパレーは、少年のとき床屋の徒弟になり、ついでパリで、最古の病院オテル・ディユーで外科を三、四年間修行した。
まもなく軍医として戦争に行ったが、1537年、北イタリアで戦傷者を治療する時、従来の方法、すなわち銃創では火薬の中毒が起こるとの考えから、烙鉄(焼いた鉄)または熱した油をもって傷口を消毒していたのを止めて、パレーは、卵の黄味、バラ油、テレピン油を合わせたものを傷口に塗ることを始めた。
これは彼が戦場で偶然みつけた新しいやり方で、著しい功績であったーーーー」
パレーは、その後も次々と新しい外科治療を開拓し、ついにヨーロッパ随一の外科医になります。
この小史の示すように、あの大外科医のアンブロアス・パレーですら、最初は床屋の徒弟から出発したのです。

沖縄で言うところの「ブーブー」(瀉血)は、19世紀にいたるまで、ヨーロッパやアメリカで大活躍しました。
西欧方式の「ブーブー」の沖縄への渡来については二つのルートが考えられます。
ベッテルハイムその他の西欧の医師による沖縄での直接の伝授、そして、すでに中国で行われていた西欧方式の瀉血法を中国に渡った沖縄人(ウチナ-ンチュ)が伝授して持ち帰ったか、である。
私は両方だと考えます。  

Posted by 具志堅興清 at 22:25Comments(0)「針灸医学」

「ブーブー」治療を受けたワシントン大統領

2010年01月16日

111、〇 『 「ブーブー」治療を受けたワシントン大統領 』

体表から血を取って治療する方法を「瀉血(しゃけつ)」、あるいは「刺絡(しらく)」といいます。
沖縄では「ブーブー」の名称で知られています。
かっての医療貧困時代にあっては、民間療法として灸療(きゅうりょう)とともに全盛を極めました。
しかし現在、「瀉血(刺絡・ブーブー)」は、医師にしか許されない手術行為の範疇に入り、医師以外の方では法的に禁じられています。

ですから鍼灸師である私としては、「瀉血」の方法等についての説明は省略させていただきます。
その代わり、「瀉血」にまつわる興味深い歴史的挿話を紹介いたします。
アメリカの医科学者のアンドルー・ワイル博士の「人はなぜ治るのか」の中に書かれた記事です。

『1799年12月14日、前大統領(ジョージ・ワシントン)は、激しい喉(のど)の痛みを訴えるようになった。
喉は腫(は)れあがり、呼吸にも支障をきたすようになった。
不寝番が1パイント(約 0、5 リットル)ほど瀉血(しゃけつ)したが、病態は好転しなかった。
医者が呼ばれ、すぐさま喉を焼灼し、さらに1パイント(約 0,5 リットル)ほど瀉血を施した。
午後3時には別の医者が二人駆けつけ、三人の医者が討議した結果、今度はもっと大量に1クォート(1,14リットル)ほど放血することになった。
3人の医者は、血液が「ドロドロと粘ってきた」と報告しているーーーー』

結局、ジョージ・ワシントンは、その日のうちに死亡したが、その瀉血法は、大量放血で知られる沖縄の「ブーブー」をはるかに上回る大変な量の放血であった。

私が鍼灸学校で学んだ正式の中国医学の瀉血法による放血の量は、あくまでも“補(ほ)“と“瀉(しゃ)“の理論に基づいた、わずかな放血に限られた(原則として弱い体には軽い“補“の刺激、強い体には“瀉“の刺激を与える)。

思うに、沖縄の「ブーブー」の瀉血法は、明らかに西欧方式である。  

Posted by 具志堅興清 at 18:06Comments(0)「針灸医学」

一年、早く生まれていたらなあ

2010年01月16日

110、〇 『 一年、早く生まれていたらなあ 』

小学校や中学校時代に私の一級下だった旧友と会い、お互いの幼い頃を語り合う時、、彼の口から頻繁に出てくる言葉があります。
「もう一年、早く生まれていたらなあ」-です。
その言葉の意味は、「もう一年、早く生まれていたら、戦争体験の記憶が全部残っていたのになあ」-です。

私の小学校や中学校時代の同級生のほとんどは、昭和14年4月から昭和15年3月までに生まれた人たちです。
沖縄戦当時、満五歳でした。
私より一級下の方々は、昭和15年4月から昭和16年3月までに生まれた人たちです。
沖縄戦当時、満四歳でした。
ちなみに当時の同級生のなかには、一部に一歳上の生徒もいました。
私の一級上の方々は、昭和20年の4月に小学校入学の予定でしたが、ちょうど、その頃から沖縄戦が始まり、彼らの大半が晴れて一年生になったのが戦争翌年の1月頃でした。
南洋や内地(他府県)からの引揚者の一年生は、結局、繰り下がった入学式に間に合わず、一級下がって私らと同級生になったというわけです。
戦争は、このあたりでも子供の一部に、大きな犠牲を強いたことになります。

さて、私を含めた同級生たちのほとんどが沖縄戦当時の記憶を鮮明に残しています。
しかし、一級下の方々の場合は、ほとんどの方の記憶がボヤケテ不鮮明です。

一級下の私の旧友に言わせると、以前は、「嫌な現場を見なくてすんだ」-と自分を納得させていたそうですが、戦争体験者が次第に少なくなるにつれ、「もう一年、早く生まれていたらなあ」-という思いが膨らんできたのだと言います。

いかなる体験にも言えることですが、体験記憶が鮮明ならば、堂々と体験を証言できます。
不鮮明な体験ならば、そうはいきません。
私は、この頃、自分たちが沖縄戦最後の証言者であることの重みを、痛感しないわけにはいきません。  

Posted by 具志堅興清 at 09:50Comments(0)沖縄歴史